『誰にも判かる印刷物誂方の秘訣』第一章

出典

三谷幸吉*1編著『誰にも判かる印刷物誂方の秘訣』印刷改造社, 1930, pp. 1–9

第一章 我国現存鉛製活字の創始者

普通文字及書籍印刷なり新聞印刷には活字が土台となるのでありまするが故に、本書の最初に於きまして我国の活字の創始者が何人でありまするかを申し述べますことも最も意義深いことゝ考へられるのであります。

そこで我国現存の鉛製活字の創始者が大鳥圭介氏であると云ふ説と又一方には本木昌造氏であると云ふとの二つの学説がありまするが、大鳥圭介氏説は歴史家及文学の先生方間に於て称へられて居ります。又本木昌造氏説は長崎人又は印刷業者に依つて称へられて居るのでありまするが此の説は東京築地活版製造所から出版した本木昌造氏の伝記からの説で、学術とか実際とか云ふ確かなものでないのであります。何れに致しましても其の根本説と云ふのは大鳥圭介氏説は同氏が万延元年冬十月(西暦一八六〇年)に陸軍所から出版せられました「築城典刑」を物的証拠として居られるのでありまするが、又一方本木昌造氏説は嘉永元年(西暦一八四八年)「本木昌造氏は銀六貫四百目を借請けて蘭書植字版一式を和蘭から購入した」と云ふ記録が楢林宗太氏家に現存して居りまして、夫れより本木昌造氏が色々と工夫をせられて四、五年の後大鳥圭介氏が築城典刑を出版せられし八、九年以前即ち嘉永四、五年(西暦一八五二年―一八五三年)頃に至つて「流がし込み活字」を案出せられたのであります。而して前に購入せられた蘭字版と自分が案出せられた日本字とを併用せられて自著の蘭和通辨と云ふ書籍を印刷して和蘭に送り、又其当時長崎に居た和蘭人に夫れを見せられ、非常に良く出来たと賞揚せられたと云ふとことを証拠として居るのであります。而して蘭和通辨なるものを世人未だ嘗つて見たと云ふことを聞かないのであります。著者も有らゆる図書館や本木昌造氏の関係の方々に就いて尋ねましたが手掛りがないのでありますが、「火の無い所に煙立たず」と云ふ意味に於きまして記録の上に現はれて居りまするところの和蘭政府に向つて其の取調べを交渉中でありまするが、鉛製活字を作られたのは此の二氏以前に於きましても島津家では支那から鉛活字を輸入せられて作つて居られた事実があるのでありますが、是れを現在の活字の大きさから研究致して参りますると、鉛製活字の始祖は別問題と致して現在全国に散在して居りまする活字の始祖こそ真実の活字の創始者でありますると同時に我国文化の貢献者でありまするが、此の貢献者を何人でありまするかを著者に忌憚なく言はさして戴けば動かすことの出来得ない本木昌造氏であると云ふことの確証を握つて居りますのでありまするが、長文を要しますのと今一つは本書の主意にも反しまするから、茲には詳細を省きまして他の機会に於て公表することゝ致しまするが、然かし本木昌造氏の所謂伝記から申しますると活字の大きさの基準を外国の活字の基準又は大きさに慣つたと書いてありまするが、余り信を措けないと思ふのであります。若し本木昌造氏が我国の活字の大きさを外国の活字の大きさに慣はれたとしましたものなれば必ずや外国の活字の大きさに必適すべき大きさの活字が例令一種たりともなければならぬのが当然であります。又全然外国の活字の大きさと同様に造らねばならぬのが当然であると考へられるのでありまするが、本木昌造氏が制定せられた我国初号より七号までの八種類の活字の大きさが外国の活字の大きさに唯の一種類として必適して居らないと云ふことに依りましても本木昌造氏が最初活字を造られるに際しまして其の活字の大きさに慣はれたと云ふことは理窟が合はないことゝ考へられるのであります。されば本木昌造氏は活字の大きさの基準を何に依られたかと申しますると、其の当時我国に使用されつゝありました物指の鯨尺に依られたものであると思はれるのであります。(現在の鯨尺と同様)

本木昌造氏と言はず世の発明者の主旨は世間に秘術を洩すことを嫌ふのが常でありまして、此の意味から申しましても本木昌造氏も活字の基準を鯨尺に依られたと言ふことを秘して居られたのであります。その後幕府筋にも活字を作つて居られたために自分の基準を公にせずして単に型見本のみを示されたために今日多少の変化を来たしたのでありまするが、其の説は茲には省くことと致します。

本木昌造氏が明治四年十月文部省活字御用係を命ぜられて居られたのでありまするが、其時に於きましてすら活字角の基準を秘して居られたのでありますることは、後文の勧工寮の活字販売広告を見ましても本木系の活字角とは全然相違して居るのであります。

されば本木昌造氏は如何なる方法に依つて創始活字の基準を樹てられたかと申しますると、夫れは即ち

初号活字  鯨尺   四    分     一号活字  鯨尺  二 分 五 厘
二号活字  同    二    分     三号活字  同   一 分 五 厘
四号活字  同    一分二厘五毛     五号活字  同   一    分
六号活字  同    七 厘 五 毛     七号活字  同   五    厘

右の様な具合に七、六、五、四、三号活字は各々二厘五毛の差で順次上に昇つて大きく、三、二、一号活字は各々五厘の差で順次に昇つて大きく、其の上に一分五厘の差で標題用活字として初号活字を制定せられたのであります。

本木昌造氏も活字角を制定せられまする時に一、二、三号活字は各々五厘の差でありまするが其の中間活字の二厘五毛差の活字をも作られて、都合十種類を作られるために種字は作られたのでありまするが種類が多きに失するので結局夫れは廃して現在の八種類を制定せられたのであると考へられるのであります。(以上の証拠と致しましては著者が所持致します種字は鯨尺二分二厘五毛の活字でありまして二号活字と一号活字の中間活字でありまするが、此の種字は本木昌造氏の印刷工場を整理致して色々雑多なものを引取つて印刷業を開業せられた長崎市本籠町中村清文舎印刷所で集収致したものであります。)

活字が略ぼ完成したので市井に売り広められることになつたのでありまするが、是れが現在の活字に略ぼ合致して居りまするので外国の活字基準方法と同様に合理的活字基準の制定法であります。而して明治五年「雑誌」第六十六号附録に「崎陽新塾製造活字目録」と題して自家活字を応用せられて、夫れが二号活字を使用して四分の一「アキ」として組版してありまするが其の全長は鯨尺二寸四分五厘ありまして、二号十本で二寸、四分の一九本で四分五厘に相当するのでありまするが活字販売広告に掲載されて居ります。夫れには初号より一、二、三、四、五、六(ナシ)、七号活字の七種であります。

大鳥圭介氏の創始せられし活字の大きさは曲尺に依られて基準を制定せられたのでありまして現に「築城典刑」は曲尺の二分角の活字を使用せられて居るのでありまして、現在我国の活字には曲尺二分と云ふ明朝活字は市井には売られて無いのでありまするが、単り明治九年に神崎正誼氏が勝安房氏の後援に依つて完成せられた弘道軒の楷書活字は同所が意匠登録を得たのでありまするが其の中に曲尺二分角の活字が一種あります。それで弘道軒の活字全部の角は曲尺でありまするが今日では殆ど使用されて居ない位であります。即ち

一号活字   曲尺 五  分   (本木式初号)
二号同    同  三  分   (同  ナシ)
三号同    同  二分五厘   (同  二号)
四号同    同  二  分   (本木式ナシ築城典刑ノ活字と同型)
五号同    同  一分五厘   (同  ナシ)
六号同    同  一  分   (同  ナシ)

幕府及陸軍所、工部省より引き続ぎを承けたところの勧工寮が明治六年四月二十七日に東京日日新聞に左の活字販売広告を掲載されて居ります。即ち

鉛製活字大 二分五厘方     一銭一厘
同     二分五厘横二分   八厘五毛
同     二分方       八  厘(築城典刑の活字と同型)
同     一分二厘五毛方   七  厘
同     六厘二毛五弗方   四厘五毛

右の広告文の上より見ますれば其寸法は表示してありませぬが、曲尺でありまするか鯨尺でありまするかは不明ではありまするが、著者が所持致しまする蕃書調所で刊行せられました慶応二年(西暦一八六六年)江戸再版とある「英和対訳袖珍辞書」の表紙に使用してありまする活字は皆曲尺であります。又夫れに逆りまして築城典刑の活字が曲尺でありますし、勧工寮の活字が曲尺でありまする点から申せば幕府なり政府筋なりは終始一貫曲尺を以つて活字の基準を樹てられたのでありますることゝ信ずる外はないのであります。

勧工寮の活字基準が若し鯨尺と致しますれば二分五厘方(本木の一号活字)、二分方(本木の二号活字)一分二厘五毛方(本木の四号活字)の三種が現存して居ると云ふことになります。又曲尺とすれば二分五厘方(本木の二号活字)、一分二厘五毛方(本木の五号活字)、六厘二毛五弗方(本木の七号活字)でありまするが故に是れ又現存するものは三種に過ぎぬのであります。

活字の大きさの基準は其の創始者各々が当時の物指を以つて基準と致されたのでありまするから大鳥圭介氏も又本木昌造氏も共に日本の其当時の物指を以つて活字の基準を樹てられたのでありまするから当然三種類のみは両者偶然にして合致したのでありまして、是等の点は大鳥、本木氏共に互に何人かのを見習はれたと云ふことには出来得ないことは確実でありまして互に独立した立場から制定せられたのであります。

而して見ますれば現在全国に散在して居りまする活字は、本木昌造氏の制定せられた部分は全部でありまして、大鳥圭介氏系の部分は結局三種類に過ぎぬのでありまするから、我国現在の鉛活字の創始者は取りも直さず本木昌造氏であると云ふのが真実であると同時に、大鳥圭介氏系は曲尺で活字の基準を樹てられたので、現在の二、五、七号活字の三種類が現存して居りまするし本木昌造氏は鯨尺で活字の基準を制定せられたのでありまして悉く現存して居るのであります。

活字の高さも本木昌造氏は鯨尺五寸に対して八本即ち活字一個の高さは鯨尺の六分二厘五毛と制定せられたのであると考へるのであります。

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*1
1886–1941